2005年10月31日

恋の嵐

私は26歳の時、恋に落ちた。
こんなに人を好きになれるなんて、自分でも思わなかった。
彼のすべてが好きだった。
車を運転する姿も、タバコを吸う仕草も、声も、何もかも。
そんな彼と付き合っている私は、「世界一幸せ」だった。
バラ色の人生ってこういうのをいうのだろう、何もかもが輝いて見えた。

彼は、私が望むことをすぐに察知し、いつも先回りしてくれた。
私はいつも彼と一緒にいたくて、誰といるよりも彼と一緒の時間を優先した。
彼も同じだった。いつも私の予定を聞き、なるべく会える時間を作ってくれた。

だが、そんな時間は長くは続かなかった。
やがて彼は、次第に私と知り合う前の生活に戻っていった。今ならわかる。
だが、その頃の私には、彼がどうしてだんだん他の約束を優先するのかわからなかった。“どうして彼は変わってしまったのだろう?”“私がもっと一生懸命すれば、彼はまた元の彼に戻ってくれるだろうか?”

私は焦り、毎日が不安で不安でたまらなかった。
私はどっぷり彼にハマっていたのだ。

そうなってくると関係はギクシャクしてくる。私は追い、彼は逃げる。
“最初は逆だったじゃない。彼が私をすごく必要としてくれたんじゃない”その思いがますます私に、彼への執着心を掻き立てさせた。

しばらくして彼は、無理をして以前のように私との時間を大切にするようになった。そして私達は、結婚を意識するようになった。この時私は28歳になっていた。
彼は自分の両親に、私と結婚することを告げ、私を実家に連れて行ってくれたのだ。
なのに私の心は、いつかまた彼がどこかへ行ってしまうのではないかと、不安でいっぱいだった。心の中で思っている事は、その通りになってしまうものだ。

その後、私達はなんでもない一本の電話から口論となり、そのまま別れることになってしまった。私は彼を追えなかった。もう、私自身、彼をつなぎとめようとする事に疲れきってしまったからだ。

それから一年間、私は立ち直れなかった。
何日泣き、何日眠れない日を過ごしたことだろう。
しかし、時間の経過とはすごいもので、だんだん朝起きても、一番に彼のことを思い出さないようになっていった。24時間の中で、彼の事を考える時間が日に日に少なくなっていく。

だが、私は心の中で“彼以上の人はもう一生現れることはないだろう”と思っていた。

ところが、新しい恋はまたやってきた。その後もいくつかやってきた。
なんだ、なんだ、他にもたくさん素敵な人いるじゃない。

私は、恋は“思い込み”だと思う。
彼と過ごした時間で、私は彼とどれだけ話をしただろう。私達は、殆ど何かを一緒にしていただけで、会話らしい会話があっただろうか。イベントだらけの毎日に私は浮かれていただけではないだろうか。彼のことを、私は全然知らなかったように思う。

私はもう二度と、あの時のような「世界で一番幸せ」とか「バラ色の人生」などと、何の疑問もなく思うことはないと思う。なくって全然構わない。
嵐のような激しい恋は一度で充分である。

話が合って、笑いがあって、何でも話せる相手ともっさりした愛を育てていきたい。

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Posted by late_bloomer at 00:33Comments(30)

2005年10月30日

誤解

12日間の点滴治療がやっと終わった。
10日目を過ぎた頃からちょっとずつ「あれ?なんだか元気だぞ」という気持ちになってきて、家に帰ってからのお昼寝の時間も、だんだん短くなっていった。先生は、「10日過ぎくらいから良くなってきたのを実感できますよ」と言っていたが、どんぴしゃで、ますますあのブサイクちゃんへの信頼度が増した。

ただ、先生は「副作用は殆ど出ない」と言っていたが、私はどんな薬を使っても必ず副作用が出てしまうらしい。途中、吐き気と動悸に苦しんだ時は、“あのブサイク、嘘つきやがって”と思ったものだが、副作用も慣れてきて、今は、サッと立ち上がると、目の前が真っ白になるくらいで、じーっと固まっていればすぐに治まる。これくらいなら全然OKだ。

最終日だった今日は、病院の帰りに母と中華料理屋で打ち上げをやった。
母は、2〜3日前から体調を崩し、私はハラハラしていたが、なんとか持ちこたえてくれた。昼間から中ジョッキの生ビールを飲んでいたから、もう大丈夫だろう。
海老チャーハンと海老あんかけそばを一つずつ取り、半分ずつ食べた。
私がご馳走すると言ったので、母が気を遣ったのか、とてもつつましい打ち上げになった。最後に「これで元気になりますように」と言われた時は、“元気にならなくちゃ”と強く思った。

ところで、後半戦、やはりAさんとBさんがほぼ半分ずつ担当してくれた。

一番最初の点滴治療に入る前に診察があった。その時先生に、「明日からは何時にくればいいですか?」と聞いた所、「午前中の診察時間中であればいつでもかまいませんよ」と言われた。母にとって朝は一番忙しい時間だ。母と話し合った結果、9時に家を出る位なら問題ないというので、9時に家を出て、10時に病院に着くぐらいにしようと決めた。

点滴時間は、大体2時間なのだが、診察が入ったり点滴を落とす間隔が長かったりすると、2時間半から3時間かかってしまうこともあり、12時を回ってしまったことが数回あった。午前中の診察時間は一応12時までだ。だが、本来は12時ちょっと前に来て、点滴を受けてもいいはずである。

ところが、Aさんに相変わらずの朗らかな笑顔で、「もう少し早く家を出ることはできないかしら?」と聞かれた。「あ、はい。30分くらいなら大丈夫だと思います。後は渋滞があると・・・。」と答えると、「もうちょっと早く来てくれると助かるわ」と言われたのだ。

それ以来、7時半に起きて、遅くとも8時半までに家を出なければならなくなった。母に申し訳ないと思いつつ、私はいつも母を急かして病院へ連れて行ってもらっていた。

だが、病院側も混んでる時があり、私が早く行っても12時を回ってしまうことがある。私はあの日、どうしてAさんが早く来るよう言ったのか疑問を持ったので、全然関係ない看護士さんに、ちょっと聞いてみた。すると、午前中に勤務の看護士さんは、12時に休憩が入り、交代するという。私が12時を回って点滴をしていると、Aさんは休憩に入れないわけだ・・。

Bさんは、相変わらず針を刺すのは苦手なようで、言い訳を繰り返していたが、一度も私に早く来るように言ったこともなければ、点滴が終わった後も、「ゆっくり休んでから起きてください」とガラガラ声で言ってくれた。

最終日の今日、Bさんが点滴の針を抜きに来てくれ、「今日でおしまいですね。お疲れ様でした」と言ってくれたので、「ありがとうございました。お世話になりました」と言って、病室を出た。

この病院、玄関を出てすぐの所に、ミニ動物園と池がある。
私は、いつも真っ白いオウムを母とからかいに行く。オハヨウとかコニチハとか気まぐれに言ってくれるのだ。何も言わない時は、母はオウムに向かって「バーカ」と繰り返し教えていた・・。

話がそれたが、私が会計を済ませて玄関を出ようとしたら、Bさんがとても穏やかな顔で、オウムや鹿、クジャクをゆっくり見ながら池のほとりへ行き、大きく深呼吸しているのが見えた。私を見送ってからの休憩入りだったのだ。今日、私が病室を出たのは、12時45分だった。もちろんBさんは何も言わなかった。

目に見える言葉や態度で、すぐに私はその人を判断してしまうところがある。
もちろん当たっていることもあるが、角度を変えてみると、目に見えなかったものが見えてくる。私はもしかしたら大きな誤解をしていたのかもしれない。。。

<皆様へ>
今日また新記録樹立!2470点。目標をクリアできました!
本当にありがとうございます☆目標は大きく、今度は3000点目指して頑張ります!

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Posted by late_bloomer at 00:17Comments(22)

2005年10月29日

男泣き

e3c4733e.jpg今までで最高得点が出た〜!
2200点台の壁が厚く、なかなか越えられずにいたが、とうとう2300点を記録した☆

なんとも中途半端な写真になってしまったが、これを撮るのに40分もかかってしまった。順位から、タイトル、2300点を入れようとすると、どうしても数字がよくわからなくなってしまう。いろいろな角度で撮ってみたが、やはり2300という数字が主役だ。後は、これが私のblogだとわかればいい。なんとか説明文の端っこが写っているので、これが証拠になるだろう。(目を細めてみてください)

すごい人は、あっという間にすごい数字をはじき出し、数日でトップ10入りしてしまう。私のblogには、残念ながらそういう派手さはない。だが、地道に試行錯誤を繰り返し、目標としていた2300点台に到達したこの深い喜びは、おそらく彼らには味わえないものだろう。

blogを初めて約7ヶ月。

最初は、書きたいことがたくさんあって、ただ、書くことが嬉しくて楽しかった。
だが、そういう時期が過ぎると、いろいろ悩むようになった。「女の価値は自分で決める」というタイトルを掲げるからには、それに沿った内容でなければならない。その頃は、タイトルに縛られ、タイトルから遠ざからないようにと必死に文章をひねり出していたように思う。今読み返してみると、無理して書いているのがよく表れている。

ランキングに翻弄された時期もあった。
ムキになって、なんとかランキングが上がらないかと、媚びるような文章を書いたこともある。

それでも読んでくれる人がいた。共感してくれる人がいた。
お誕生日を祝ってもらい、犬の心配までしてもらった。病気のことを聞いてもらい、励ましてもらった。今は書くことも楽しんでいるが、書き終えた後、どんな反応が来るのかそちらの方が楽しみで仕方ない。

私から文章を発信しているものの、私が一番、多くの言葉、目に見えない支えをもらっいる。

この気持ちを、どんな言葉で伝えたらいいのだろう。
やはり“ありがとう”しか見つからない。
こんな嬉しい気持ちを与えてくれて、ありがとう。そしてLOVEだ。

日付が変わり、もう2300点は過去のものとなった。
これからは、2400点を目指して、より楽しめる文章を書いて行きたいと思う。

だが最近、エッセイというより、“本性丸出し小話”になってはいないか?
でも、これが私の本当のスタイルなのだ。
もうなんでもありだ。こうなりゃ小話ist目指して頑張るぞ!

説明文も“実体験を綴った小話ブログ”に変えたほうがいいぞと思う方も思わない方も人気blogランキングクリックお願いします☆
  
Posted by late_bloomer at 01:52Comments(19)

2005年10月28日

哀しい物語

私には姉と弟がいて、女女男の真ん中である。
前にも書いたが、子供の頃は、それはそれは激しい生存競争を繰り広げていた。
私は、ちびちびとやる方だったので、その隙に私の分のジュースを弟に何度も飲まれた。だが、これは仕方がない。より強いものが生き残っていく為の競争だ。子供のくせにちびちび残しておいた私が悪かったのだろう。だが、そこにはルールがあってもいいじゃないか。私はきちんと名前を書いていたのだ。それなのに、弟は飲んだ。

だから、私は母に泣いて抗議した。
「どうして、どうして私の分飲んじゃうのにお母さんは弟を怒らないの!?あんな奴生まれてこなければ良かったのにっ!ヒック、ヒック」と。すると母は、「あら、あのね、うちはもともと子供は二人でいいって言ってたのよ。お姉ちゃんが生まれて、次が男の子だったら良かったんだけど、あんた女の子だったから。だから、もう一人作ったの。そしたらやっと男の子だったのよぉ」と言ったのだ。私はまだまだ小さな女の子だったのだ、何も悪いことなどしてない幼い女の子だったのだ。母の言葉にショックを受け、放心状態の後、私は「そうか・・弟じゃなくて私が生まれてこなければ良かったのか」と小さな小さな胸を痛めた。

鬼のような母の言葉はさらに続く。
「お父さんなんてひどいんだから。あんたが生まれてね、電話かけて「女の子だった」って言ったら、生まれたその日に顔も見に来なかったのよぉ〜」と。私は、母だけでなく父からも、いや誰からも望まれずにこの世に誕生してしまったのか。
「私、本当に生まれてこなければよかった・・。」

その言葉のせいかどうかわからないが、私は、あまりダダをこねず、言いたいことがあっても口に出さない子供になった。

弟は、欲しいものがあるとその場に寝転び、ぎゃーぎゃー泣き、「買ってぇ、買ってぇ」とダダをこねていた。すると、母は、面倒くささからか、弟の欲しがるものは買っていたように思う。だが、珍しく私が「あ、これ欲しい」と言って、スーパーのかごに手を置き、上を見ると、そこには全然知らないおばさんが居た。そしてそのおばさんに「お母さん、もうあっち行ったわよ」と教えられた。私には、ダダをこねる暇さえ与えられず、置き去りにされてしまったのだ。

そんな私が中学生になると、また哀しい出来事が起こった。
同じ中学校へ通うのだから、制服が姉のお下がりなのは仕方がない、と幼心に思っていたのだが、入学式へ出てみると、皆の新品な制服と私のお下がりの制服は明らかに色が違っていた。恥ずかしくて悲しかった。家に帰ってわんわん泣くと「サイズが合わなくなったら買うから、もうちょっと待ってなさい」と言われた。私は言われるまま待ち、身長が伸びて姉の制服が合わなくなった時、やっと真新しい制服に袖を通すことができたのだ。

しかし、なにより辛かったのは、体操服が一枚しかなかったことだ。
私は毎日バスケ部の練習に出ていたので、当然毎日体操服を着る。だが、一枚しかない。だから、どんなにクタクタに疲れていても、家に帰ると私は急いで体操服を手で洗い、脱水をかけ、冬場はアイロンをかけて乾かした。

その頃私は、「早く大人になって自分でお金を稼ぎたい」そう思っていた。自分で稼いだお金なら、自分の好きに使える。体操服の一枚なんてすぐ買えるのだ。
今よりずっと自立心のある中学生だった。

私は、ずっとうちは貧乏だと思っていた。
だが、大人になってから、姉と子供の頃の話をした時、記憶にかなりの差があることを知って、また大きくショックを受けた。
姉は「パリっとスーツを着たお父さんが、参観日に来るのがすごく嬉しくて自慢だった」とか、体操服の話をすると「え?そんなことがあったの?全然知らなかった。言ってくれれば何とかしてあげたのに」とか。“あれ?あなたと私、同じ親でしょうか?”

私の母親参観日の時など、専業主婦であるにも関わらず、母は来なかった。私はずーっと後ろを向いて待っていた。その日は「お母さんの似顔絵を描く日」だったのだ。困った先生が、「誰でもいいから描いてね」と言ったので、一番綺麗だったまいこちゃんのお母さんを描いた。家に帰って泣きながら母を責めると「ごめんね」と言い、後でキャンディーの詰め合わせみたいなものを買ってきて、私を丸め込んだ。なぜ母が来なかったかというと、近所のおばさん達と家でお茶を飲んでおしゃべりしていたら、すっかり参観日のことを忘れてしまったそうだ。

こんな風に育てられた私は、愛に飢え、愛される悦びを知らず、愛し方を学ぶことも出来ずに大人になってしまった。そんな女が誰かを頼ったり、甘えたりなど上手にできるわけがない。かくして、私は超マイペース、自分の事は自分でする、他人のことは他人がする、というスタンスで生きていくようになってしまったのだ。

だが、今、両親を独り占めし、やっと子供の頃得られなかった“親の視線”や“愛情”を少しずつ取り戻しているように思う。病気になって面倒を見てもらっているのも、もしかしたら、神様のいたずらかもしれない。

だが私は、今、ちくちく復讐している。基本は“やられたらやり返す”だ。
母が、何か私に文句を言う度「あの時、体操服一枚しか買ってもらえなかったから」とか「参観日にお茶しててバックレたから」とか、必ず“そういう風に育てられたからこうなっちゃったんだぞ”と母の頭の中にすり込んでいるのだ。
母は「またそんな古い話ししちゃってぇ」と言うが、やはりどこかにひっかかるものがあるのだろう。その類の話をすると、それ以上文句を言わなくなる。

あ、そういえば、また一つ思い出してしまった。
幼い私が「私はどこから生まれてきたの?」と母に聞いた時、母は、「橋の下から拾ってきたのよ」と言い、そして、その橋を一緒に通った時、ご丁寧にも「ほら、あそこにいたのよ」と教えてくれたのだ。私はそのことをしばらくの間信じ、時々その橋の下へ行っては、「ほんとのお母さん、どこにいるの?」と泣いた。

子供を何だと思ってるんだ!くそババァ、いつか○○○してやる!!

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Posted by late_bloomer at 00:01Comments(22)

2005年10月27日

苦手な場所

20代の頃は、よく旅行に出かけた。と言っても、もともと出不精の私。殆どの旅行が誘われての旅行だった。海外旅行へはいつも同じ女友達と出かけた。彼女は、情報収集や手続きといった作業が好きで、人に任せるより自分でやった方がいいという、私には有難い存在だった。いつも彼女が「タイへ行こう」とか「ハワイへ行こう」とか提案する。それに私が「うん、行く」と返事し、彼女にお金を渡す。これであとは当日を待つだけだった。

一度、16時と6時を彼女が間違えて、飛行機に乗り遅れたことがある。私達は、次の日の出発で日程が同じプランを、プラス5万円も払って確保した。この時私達は、空港でしばらく呆然として動けなかった。5万の出費、会社へもう一日お休みする連絡、また空港から家に帰らなくてはならないこと・・。もちろん、私は彼女を一言も責めなかった。なんてったって、私は一度も旅行の日程表を見なかったのだ。すべて彼女に任せっきりにした私の責任も重い。シンガポールというと、この事しか記憶にない。5万円は痛かった。。

国内は、スキーへよく行った。高校の同級生と車3台分の人数で、会社の保養所など、安く泊まれる施設を選んでは数多く出かけた。私は、スキーはそれほど上手くもなく、好き!というわけでもないが、道中サービスエリアでご飯を食べたり、夜、皆でお酒を飲んだり、朝からモリモリご飯を食べたりと、皆のおかげで楽しい時間をたくさん持つことが出来た。多い時はシーズンで20回は行った。しかし、スキーの腕はまったく上がらなかった。

彼氏と行く旅行は、また友人達と行く旅行とは勝手が違うものだ。
学生時代には、クリスマスをゴージャスなホテルで過ごすのがはやっていて、私もそういう場所で過ごしたことがあったが、なんといっても値段が高い。その為、プレゼントはなし。ルームサービスで食事して、それでおしまい。
朝、チェックアウトしようとロビーへ行くと、同じようなカップルが支払い待ちで列をなしていて、興ざめした。その時私は、“はやりに乗るってバカみたいだな”と思った。もっともっと二人で考えて、安くても思い出に残るクリスマスを過ごせばよかったと。それ以来、クリスマスだからと行って、あまりスペシャルなことを望まなくなった。だが、おねだりは別だ。

男の人でもペンションが好き、という人もいて、私は1度ペンションに泊まったことがある。それまで私はペンションは敬遠していた。なぜなら、大抵どの旅行雑誌にも「オーナーの人柄と奥様の料理が最高!」とか「食事の後にはオーナーのギター演奏が聴けます☆」とか書いてある。なんかアットホームな感じがする。そういうの、苦手だ。

そのペンションは、食事がおいしい、特に朝食のパンは焼き立てでおかわり自由らしい、ということと、目的地への利便性を考えて彼が予約をしてくれた。同じ日に3組のカップルがチェックインした。こじんまりとした食堂で3組が食事をする。そして、夜が明け、また同じ3組で朝食を食べる。若いカップルは起きたばかりで、二人とも寝癖バリバリのまま食事に来ていた。もう一組は、彼女が30代後半位の日本人で既にお化粧バッチリ、彼のほうは40代後半位だろうか。彼はまったく日本語ができない英語人だった。すべて彼女が仕切っていて、支払いも車の運転も彼女がしていた。こんな風にこぢんまりしていると、それぞれの関係が丸見えで、心が休まらないじゃないか。

そして、やはり、私が一番苦手なアットホームな出来事が、朝食を終えようとした頃起こった。子供がおかわりパンを配りはじめたのだ。私は人見知りな上、愛想が悪い。子供の頃からそうだった。だから、ちょっと恥ずかしがっているような子供は通じるものがあり、可愛いと思うのだが、積極的で自分から笑顔を振りまいて近づいてくる子供は、どう扱っていいかわからないので怖い。この子供、そうとう大人馴れしていた。皆に「可愛い」とか「偉いね」とか言われ続けてきたのだろう。褒めてくれて当たり前という自信満々の笑顔でテーブルを回っていた。

案の定、この日もどのカップルの女の子も彼氏の前で「うわぁ、ありがとう。可愛い。偉いね、幾つ?」とか「可愛い〜。ありがとう」とか言っているのだ。この子供、クリクリ坊主でお世辞にも可愛い顔をしているとは言えない、なのにだ。

私は、この時すぐ彼氏に「やだ、あたし、ああいうのすごい苦手。ダメダメ。あたし、パンのおかわりいらないから、いるんだったら自分で言ってね」と言った。彼氏はそういう私を知っていたので、その子供がパンを持って近寄ってきた時、普通に「これ一つください」と言っていた。。

こういう時、嘘でもいいから誰よりも大きな声で「うわぁ〜、可愛い子が持ってきてくれると、おいしそうなパンがもっとおいしそうに見えちゃう☆お腹いっぱいだけど、もっと食べたくなっちゃった、えへっ。もらっちゃおうっと。偉いね、ありがとう☆」なんて言ったら、男の人は“こいつ、子供好きで家庭的なんだな”とグっときちゃうものなんだろうか。

だが、嘘がつけない私、もうペンションに近づくのはやめておこう。

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Posted by late_bloomer at 00:13Comments(18)

2005年10月26日

号外 祝 日本一!

b6c9eff6.jpg千葉ロッテマリーンズ☆

31年ぶり日本一おめでとう!!

優勝パレード見たい!

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Posted by late_bloomer at 22:06Comments(11)

子の心親知らず

初恋が終わりを告げ、中学ともお別れという頃、私は、初めてちょっと反抗期に入った。今思うと、結構まともな中学生だったと我ながら思う。

私は、突然母に「高校へは行かない」と言ったのだ。
当時の高校といえば、偏差値で区別するだけで、変わった科があるわけでも、特色のある学校があるわけでもなかった。私は皆が行くからという理由だけで学校へ行く気にどうしてもなれなかった。高校へ行く意味が見出せなかったのだ。人生の意味について、この頃の私は考えていたと思う。

私は部活でも活躍し、勉強もそこそこ。
問題なんてもちろん一度も起こしたことがない。
だが、この時だけは、母が学校に呼び出しをくらい、先生と3人で話をした記憶がある。先生が言ったことは、殆ど覚えてない。おそらく延々と「高校生活の意義」について話してくれたのだと思うが、私の心には伝わってこなかった。

だが、学校を出て、母と二人で家に向かって歩いている時、母が「高校行かないなら、どうするの?働くの?働くのって大変なのよ。学校へ行く方が働くよりよっぽど楽だと思うけど。」と言ったのだ。私は、驚いた。“え?高校へ行かなかったら働くのか?”と。家に帰ってから高校生の姉にも「働くより学校行った方が楽だよ」と言われたのだ。“やだ、そうなんだ・・”ゴネゴネ言ってる場合じゃない。
私は一気に方向転換し、高校受験の準備に取り掛かり、無事、高校生になった。

そして、何となく高校生活を送ると、大学受験までした。
私の頭の中には“働くより学校へ行く方が楽”と中学3年生でインプットされてしまったからだ。この時結構家族にいじられた。「高校行かないって言ってたのにねぇ〜」と。

大学は高校と違っていろいろな科があり、特色がある。
だが、この頃の私もやはり、やりたいことなどまだ見つかっていなかった。
当時は「良い学校へ行って、良い会社に就職すること」が幸せな道だと言われていた時代だ。学校は一種のブランドだった。

そしてまた母が言った。「女の子はね、お嬢様学校へ行くのが一番」と。そして、お嬢様学校と言われている学校へ進学した姉も「うちの学校すごく楽だよ。休み多いし、単位は楽に取れるし。」と言った。私はもう“楽”という言葉に敏感に反応するようになっていた。そして私は、運良く姉と同じ学校にギリギリで引っかかり、インチキお嬢様になった。

世の中と言うのは、幾つになっても学校名で人を決め付けるところがある。私が働かずにぷらぷらしていても、「お嬢様だから」と言われる。
インチキお嬢様の私でも、度々そういう扱いを受けることがあり、私は、世の中の固定観念を存分に利用させてもらうことができた。母はそれを見越して、私にその手の学校をすすめたのだろう。

母は、30を越えてもまだ家にかじりつき、骨の髄までしゃぶりつくそうとしている私に、何度も「育て方を間違えた」と言っているが、そんなことは、全然ない。母は、私にイバラの道を通らないよう育ててくれたのだ。おかげでマイペースな私は、ゆっくり自分のペースで、自分なりの人生を見つけることができ、そして、そこへ向かってゆっくり少しずつではあるが、進んで行けているのだ。

だが、これから先は、他の人よりイバラの道が待っているような悪寒がする。。

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2005年10月25日

初恋

私が本格的に“恋”を感じたのは、中学二年生の時。
私はバスケット部に所属する、ショートカットで痩せっぽちのスポーツ少女だった。
練習は、曜日ごとに体育館の日と外のコートでやる日があったが、私は外で練習する日が好きだった。なぜなら、気になる彼が練習している姿が見られたからだ。
彼はサッカー部で活躍するイケメン。彼を好きになった理由は、格好良かったから。単に外見だけで私は心を奪われたわけだ。

私の学年は全部で15クラスあり、一学年600人くらいいた。
彼とは一度も同じクラスになったことはなく、学校で直接話したことなどなかった。だから、私は思い切ってバレンタインデーにチョコレートを渡すことにした。本当の意味で、気持ちを伝える為にチョコレートを渡したのは、この時が最初で最後だろう。

私と彼のクラスは、ちょうど中庭を挟んで向かいに位置していて、私は一番窓側の席、彼も窓側の席で、お互い窓を開けると顔が見える席に座っていた。
私が良く見ているものだから、彼も私を見るようになり、目と目が合うとにっこり笑顔を向けてくれるようになった。

そしてバレンタインデー当日、私は、授業が始まる寸前、皆が教室に戻り、座りかけ始めた頃、彼に“こっち見て!”と念力を送り、彼がそれに答えてこちらを見てくれたので、手で、「そこに居て」と合図し、中庭を突っ切って彼の元にむかい、窓の外から彼にチョコレートを渡したのだ。

その時、なんと言って渡したかまったく記憶がない。ただ、恥ずかしくて恥ずかしくて、消えてしまいたかった。私は、一目散に自分の教室へ戻り、窓を閉めてしまった。しばらくの間、怖くて窓を開けることはできなかった。

後日、彼と同じクラスの女の子に聞いたところ、彼は、ものすごくたくさんのチョコレートをもらったそうだ。私は当時から手作りなんてものにはまったく興味がなかったので、既製品を渡したのだが、多分、ネクタイの形のチョコレートを買ったように記憶している。サラリーマン相手じゃあるまいし、なぜネクタイにしたんだろう??

その後、気持ちが通じたのか、私達は交換日記をするようになった。
そんな純粋で、青春真っ盛りの初恋を温めていくうち、どういったいきさつがあったのか覚えていないが、彼と一緒に彼の実のお母さんに会いに行くことになった。彼のご両親は離婚し、彼はお父さんと一緒に暮らしていたのだが、その後、お父さんが再婚し、新しいお母さんと一緒に暮らしていた。そして、実のお母さんとは時々、一人で会ったりしていたようだった。

彼と、彼のお母さんと、私の3人で大磯ロングビーチに行くことになった。
これが、初デートである。親同伴のデートなんて、なんて私は健全な中学生だったのだろう。

彼のお母さんは、本当にとってもよくしてくれた。
私たち二人をグリーン車に乗せ、プールでは一番高い席を取り、パラソルを借り、おいしいアイスクリームとおいしいホテルのランチをご馳走してくれた。私たちが流れるプールで遊んでいるのを、嬉しそうに遠くからいつも見守っていてくれた。そして、楽しい時間はあっという間に過ぎ、帰る時間になった。
お母さんは別の町に住んでいる。途中で別れなければならない。
私達に何度も気をつけて帰るように言い、名残惜しそうに最後まで見送ってくれた。

私が知っていた彼は、サッカーが上手で明るくて人気者。ただそれだけだった。だが、ほんの少し踏み込んでみたら、彼はまったく別の顔を見せてくれた。彼は私なんかと比べものにならないくらいはるかに大人で、いろいろな事を考える繊細な人だったのだ。

そうして、私は彼にどんどん惹かれていった。

と、書きたいところだが、その日、私達の住む町の駅に着き、電車から降りて彼が先に階段を降りた時、私は見てはいけないものを見てしまった。

彼のつむじがなんかおかしいのだ。よせばいいのにじっくり見てしまった。
なんと、つむじが3つもあるじゃないか。
なんでつむじが3つもあるんだ?つむじは一人一つじゃないのか?
生まれてはじめて“つむ3”を目にし、私は気が動転してしまった。
どうやって家に辿り着いたのか覚えていない。私の頭の中はこれまでのすべてを吹き飛ばし、“つむ3”一色になってしまった。

その後、彼から「映画を観に行こう」と誘われたが、どうしても“つむ3”のことが忘れられず、私と彼は、だんだん疎遠になってしまった。

こうして私の初恋は終わってしまったのだ。

初恋をこんな風にダメにしてしまった罰が当たったのか、私のその後の恋愛には、幾多もの試練が待ち構えていたのである。

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Posted by late_bloomer at 00:01Comments(18)

2005年10月24日

もう何も考えまい

早いもので点滴治療を始めてから、もう折り返し地点までやってきた。
効果はどうかというと、今のところまったくない。どころか、どちらかというと調子は下っているようにすら感じる。おそらく副作用だと思うのだが、とにかくだるくてだるくて横にならずにいられないのだ。

私はもっと軽く考えていた。たった2時間の点滴の為に入院なんて、と思っていたのだが、先生が入院をすすめたにはそれなりに理由があったのだ。
点滴中はもちろん、終わってからも家に帰ってからもひたすら寝てしまう。
自分で運転して帰るのはかなり無理がある。車の中でもひたすらコックリコックリ。
入院をしていれば、そのまま一日中ゆっくり眠れたわけだ。。。
6回の点滴の間に3回診察してもらったが、今はひたすらゆっくり眠ることが一番だという。効果が出てくるのは2週間終える間近だとか。とにかく今は先生を信じるしかない。

そんな私の状態を見て、母はちょっとイライラし始めた。「もう行ってみたいとこ全部行っちゃったし、行けば行ったで余計な出費しちゃうし」と。そりゃそうだ。私は行ったらひたすら眠るだけ。だが、母はその間毎日時間をつぶさなければならない。私が「入院すればよかったね・・。」と母に言うと、あわてて「そうじゃなくてね、元気になっていくならこっちも送り迎えのしがいがあるんだけど、こんな状態じゃ何の為にやってるんだか・・・。」と。それを言われるとこちらも辛い。でも、入院しないで頑張ればって言ってくれたの、誰だっけ?仕方ない、母ちゃんにはもうちょっと頑張ってもらおう。

ところで、この一週間、おそらく50代位だと思われるベテラン看護士さんのAさんとBさんにお世話になった。
Aさんは、朗らかで話しやすく点滴の針の刺し方も抜群。初日はすっと一発で入れてくれたし、いろいろ気を遣ってくれた。
そして次の日のBさん、見るからにちょっと怖い。口調は優しいのだが、目は全然笑ってないし、髪はショートでポマードで固めてる。声はたばこか酒焼けか?というくらいガラガラ声だ。いざ針を刺すという時、何度も腕をさすったりペシペシ叩いたりして、「なかなか血管が見えないわねぇ」と言いながらやっと刺した。ふーっ。

そのうち私は、ポタポタと落ちる点滴のしずくを見ながら寝入ってしまった。
するとBさんが見回りに来て、大きな声で「手、動かしました!?」と私を起こして言うのだ。私はぼんやりしながら「寝ちゃったんで、よくわかりませんが・・。」と答えると、急いで点滴の針を抜く作業にかかった。よく見ると、左腕の指先からひじまで、まるで赤ちゃんの手のようにしわひとつなく、パンパンに腫れていた。おそらく初めから血管に入っていなかったのだろうと私は思った。こんなに腫れているんだから。自分でパンパンになった腕を見ながら“赤ちゃんみたいで可愛い”と思いつつ、私はBさんに対してかなり不信感を抱いてしまった。

なぜなら、前日のAさんの時は、トイレに行って腕を動かしても全然平気だったのだ。ちょっと腕を動かしたからって、血管から、固定された針が抜けるとは思えない。が、彼女は最初から私のせいにしたのだ。それとも医療ミスと思わせてはいけないからと、「謝ってはいけない」というルールでもあるのだろうか。

だが、私、こういうタイプには何も言えない。

その翌日から、Bさんに名前を呼ばれるものの、3日間点滴をしてくれたのはAさんだった。“きっと失敗したからもうBさんは来ないんだな”とほっとしたのも束の間、最後の土曜日にBさんはやってきた。“やだなぁ〜、また腕がパンパンになるのもいやだけど、あの分の点滴、無駄になっちゃうのよ。ちゃんと血管にいれて頂戴よぉ”と心では思いつつ、そんなことなどちっとも思ってないような素振りで、私はニコニコしながら「よろしくお願いします☆」と弱弱しくもはかなげな笑顔を作って言った。

するとBさん、また始まった。
「おかしいわね。今日はいつものところ、全然血管が出てこないわ」と腕をさすりペシペシ何度も叩く。Aさんは一度もそんなことを言ったことはなく、いつも同じようなところに一発で針をぶち込んでいた。
“あ〜、どうしよう。なんか言わなくっちゃ”私はなぜかBさんのご機嫌を取ろうとし、「私の力の入れ方が弱いんでしょうか・・?」なんて言ったりした。すると、Bさん、嬉しそうに「大丈夫よ、これだけ力入ってるんだから」と私を励ます。笑みがこぼれた。その瞬間だ、針はぶち込まれた。そして、どこにもお漏らしすることなく、この日は無事点滴を終えることができたのだ。ほっ。

Bさんは、とってもプライドが高くて仕事熱心な人だと思う。
ただ、自分のミスを簡単に認められないだけなのだ。
でも本当は心の中で、“失敗しちゃった”という意識を強く思っている。だが、表には出せない。その為に、いろいろ言い訳が出てきてしまう。

そういう人だと思うと、私は何も言えなくなってしまうのだ。

そういえば、会社にもこういうタイプの人いたっけ。
悪気があったりやる気がない人には、バンバン文句が言えるが、こういうタイプには私は何も言えず、ひたすら気を遣い、いい子を演じてしまう。
だが、それってすごく疲れる。そういうとこ自分でも嫌だな〜って思う。

っていうか、深読みしすぎか?

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Posted by late_bloomer at 00:03Comments(17)

2005年10月23日

野球なんて・・

私がまだ子供だった頃、家にはテレビが一台しかなく、チャンネル権は父にあった。普段は帰りが遅いのに、野球中継がある日はいつもより早く家に帰ってくる父。私たち子供3人で好きな番組を見ていても、いきなりチャンネルは野球に変わってしまう。大の巨人ファンの父は、テレビに向かって怒鳴ったり拍手をしたり、それはもううるさかった。そんな父の姿を見るのも嫌で、私は野球が大嫌いになった。

だが、高校に入学してしばらく経った頃、「タッチ」を読んでいたく感銘し、私は野球部のマネージャーになってみた。しばらくは、練習の後、皆でラーメンを食べに行ったりと“男の中に女一人”を満喫していたのだが、ここの監督「マネージャーはお手伝いさんじゃない。スコアをつけたり、指示をしたりする存在だ」という方針を打ち出してしまった。私はルールもわからないままスコアをつける羽目に・・。なんだか想像していたのとはまったく違う展開だぞ。程なくして私は「みなみちゃん」になるのを諦めた。

それ以来、野球とは一切無縁の生活を送ってきた。
だが、大人になってからも野球の呪縛からは逃れられなかった。
大好きなドラマを録画しても野球のせいで中途半端に終わってしまう。
本当に野球なんて大嫌い!つくづく思った。

だが、マリンスタジアムが出来てから、近くの会社に勤務していた私は、会社のコミュニケーションの一環として、ロッテの応援に行ったりしたのだが、当時はまだスタジアムは閑散としていて、海風が強く、蒸し蒸しして髪がべっとりとなったのだけを覚えている。選手の名前も顔も何も知らなかった。

それから数年後、たまたまチケットをもらい、気持ちの良いお天気だったので、行楽気分でロッテ対日本ハムの試合を観にいった。生新庄を見たかったからだ。驚くことに観客席はお客さんでいっぱいだった。昔のあの閑散としたムードは全くない。そして、マリーンズの応援団はとても気持ちのいい応援をしていた。ぴょんぴょん跳ねる独特の応援を見ていたら、こちらの気持ちまで弾んできた。

生新庄はやっぱり格好よく、野球以外のパフォーマンスも見せれくれて、さすが新庄だなと思いつつ、ロッテに少しずつ興味が湧いて来た。なんだろう、なんとなく温かい、というかアットホームな感じがしたのだ。

私は、今シーズン、プレーオフから何気なく試合を見るようになった。
ロッテ、なかなかやるじゃん!だ。
バレンタイン監督が画面に映るたび、ツバをペっ、してるのはどうかと思うが(数を数えそうになるくらいやってた)、それ以外は紳士な感じだし、選手同士の結束も固く、いい雰囲気のチームだなと素人ながらに思った。

そして、私は見つけてしまったのだ。キラキラ輝くロッテの星を。
日本シリーズ第一戦、彼はものすごく輝いていた。

私はテレビに向かって、その彼、今江君がホームランを打った時、一塁にスライディングしてセーフになった時、あれほど大嫌いだった父と同じように、「いいぞ!今江!」「よーし!良くやった!」と大きな声でいい、手が赤くなるほど拍手をしていた・・。

マリンスタジアムに風が吹かないのはとても珍しい。
濃霧で試合が中止になるなんて。日本シリーズ史上初のことだなんて。
私が応援なんかしたからそうなっちゃったのかな。

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Posted by late_bloomer at 00:03Comments(14)