2005年08月20日

直らない癖

私は目は悪いが、耳はいい。というより、あるきっかけによって、音に敏感になってしまったというべきだろうか。

小学生の時、お友達の家へお泊りに行った。
その日の夕食時、私はいつものように食事をしていたのだが、お友達のTちゃんに、「ゆきちゃんの食べ方、犬みた〜い。ぺちゃぺちゃ音がしてる」と言われたのだ。その時、Tちゃんのお母さんとお父さんはちょっと困った顔をしていた。私は何のことかその時わからなかったが、なんとなく“私の食べ方には問題があるんだ”ということを感じた。

家に帰って家族と一緒に食事をしていてそのことがよくわかった。なぜなら父が私と同じようにぺちゃぺちゃと音を立てて食事をしていたのだ。一度気になると、もうその音ばかりが耳につく。その音が嫌で私は思い切って父に「お父さんどうして音を立ててご飯を食べるの?」と聞いてみた。父は機嫌が悪かったらしく、質問には答えずむっとしていただけだったが、後で母に「音を立てて食べるのは、マナー違反だから、音を立てないように食べなさい」と言われた。それなのになぜお父さんは音を立てて食べるんだろう?幼い私はずっと疑問に思っていたが、大人になってから謎は解けた。

私がアメリカ滞在中のホームステイ先のお母さんは、とても音に関して神経質な人だった。私の部屋のドアの閉め方が乱暴でうるさいと言う。ことさら音を立ててドアを閉めていたわけではないと思うのだが、確かにドアを閉めるとき、音を立てないようにとは少しも考えていなかった。それ以来、ドアを閉めるときは細心の注意をはらった。おかげで自分は音を立てずにドアの開閉ができるようになったが、それ以来、人のドアの開け閉めの音まで気になるようになってしまった。

ある彼と付き合っていた時、しばらくは気が付かなかったが、静かなところで会話もなく食事していた時、その彼がぺちゃぺちゃ音を立てて食べている事に気付いてしまった。しばらくは我慢していたが、私はいたたまれなくなり、「ぺちゃぺちゃ音を立てて食べるのは、マナー違反なんだよ。外でやると恥ずかしいから注意したほうがいいよ」とやんわりと言ってみた。彼は私が小学生だった頃と同じで、その音自体に気が付いていなかったようで、「そうなんだ、気をつけるよ」と言ってくれた。

だが、それから彼には音のことで悩まされることが多くなった。一つ気になるとどんどん気になってしまうもので、音に鈍感な人は、すべての音に鈍感なのか、彼のドアの開閉もひどく乱暴だった。思いっきり力を入れてドアを引き、バタンと閉める。ドアに限らず、引き出しなどありとあらゆる音を立てるのだ。

食事中のぺちゃぺちゃする音、ガムを食べるときのくちゃくちゃする音、ドアの音、私はそれらの音が気になって仕方が無い。彼に文句を言う回数が増えるようになった。すると彼は、「お前は神経質すぎる」「うるさい」そう返事が返ってくるようになった。あの時「気をつけるよ」と言ったのは、その場しのぎだったのか・・。

その時、私は謎が解けたのだ。
私は、小学生の時、食べ方を注意されすごく恥ずかしい思いをしたし、ホームステイ先では、私ががさつな人間だと思われたのがいやだった。だから、私はそれ以来自分で気を付け食べ方やいろいろな音について注意してきた。だが、皆が皆そう思うわけではない。私の父も、その彼も、食べる時に出る音や、ドアの開閉の音、そういった音に関して何も感じていないのだ。だから、直す必要性も感じないから、私の言葉は彼らには届かない。ただ「神経質な女」で終わってしまうのだ。

その彼が私の一番の嫌な癖は、コップに必ず少し飲み物を残して置いておくことだという。私はなぜだかわらかないが、大抵ほんのちょっとだけ飲み残す癖がある。これは母にも何度か注意された「それっぽっち残してどうするの?全部飲んで洗いなさい」と。だが、正直言って私はその癖をちっとも悪いと思っていない。だって、誰にも迷惑かけてないもん。。

人の癖も自分の癖も、本人自身が「恥ずかしい」とか「悪い」とか、そういった感情を持たない限り、周りがどんなにギャンギャン言っても直らないものだ。

だが、大人になって恥ずかしい癖を持っていると本当に恥をかく。なぜなら、子供のときと違って、いい大人相手に注意してくれる他人は滅多にいないからだ。周りは皆気付いていて本人だけが気付かずにいる、悲しいことだ。

注意してくれる人間には真摯に耳を傾けていこうと思う。

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2005年08月18日

温故知新

855886cc.bmp洋服や靴など明らかに流行遅れに見える、または薄汚れてしまっているような物の場合は別として、私は往々にして同じ物を長く使う傾向がある。例えば、財布。これはもうかれこれ13年は使ってるだろうか。確かにヨレっとした感はあるものの、まだまだ使えるし、なんといっても使い勝手の良いお気に入りの財布だ。同じ物が欲しかったがもう廃盤になっていて売っていないと言う。仕方ないのでもっともっとヨレヨレになるまで使おうと思っている。

車も同じ。これまで何台か乗ってきたが、こちらはものすごく気に入ったというわけではないが、特に買い換えようという気持ちがなく、修理にめちゃくちゃお金がかかるというところまで行って、やっと“じゃぁ、そろそろ買い換えようかな”という気持ちになる。

携帯なんてもっと顕著な例だ。
しばらくの間私はメール機能のついていない携帯を使っていたが、友人のすすめもあり、重い腰をやっとあげてメール機能のついたものに買い換えた。すると今度は皆カメラを使っているではないか。なんだかわかんないけど楽しそうだな、でも難しそうだなとかなり悩んで買い換えたのだが、メール機能のついた携帯からすでに5年ぐらい経っていた。

私はこれまで一つの物をずっと使い続ける人は物を大切にする人だと思っていたが、自分を見てそうではないことに気がついた。新しいものに買い換えると、しばらくの間馴染むまでに時間がかかる。それが面倒くさいのだ。できることなら慣れたものをずーっと使い続けたい。それが古くて多少不便であってもそういうことはあまり気にならないのである。

ところがものすごく困ったことがおきた。
私の部屋のクーラーが壊れてしまったのだ・・。汗かきっ子倶楽部創立者の私。会員の皆さまにはどんなに辛いかわかっていただけますよね??なんで、なんで今壊れちゃうのよ?せめてもう半月頑張ることできなかったの?クーラーを何度も見ながらつぶやいた。

姉が知人から譲ってもらったと言ってこの部屋にクーラーが付いた時のあの感動は忘れられない。“部屋にクーラーがあるってこんなに幸せなんだ”苦手だった夏がおかげで快適に過ごせるようになった。これは、かれこれもう20年以上も使い続けている代物だ。どこを探してもこんな形のクーラーは売ってない。修理に来てもらおうかとも思ったが、部品があるかどうかもわからないし、なんとなくもう寿命で“お疲れ様”と言ってあげなくてはいけないような気もする。

この年代物は、クーラーと除湿の機能しかついていない。暖房機能無しの物だ。冬は足元が寒いので、私は石油ファンヒーターを愛用している。だから冷暖房両方ついているエアコンはいらないのだ。が、どこの電器屋に行っても、クーラーだけというのは売ってない。需要がないのだと思うが、半分の値段でクーラーと除湿だけのシンプルなものが買えないものだろうか?思い切って店員さんに聞いてみたが、やはりどこのメーカーでも作ってないそうだ。

街にはもう秋物が出回っている。エアコンも今は安いだろう。
もしかしたら暖房機能がついている物の方が使ってみたら便利かもしれない。今までより快適な冬が過ごせるようになるかもしれない。

今私の部屋にはやや最新式の冷風機が回っている。首フリが左右だけじゃなくて上下にも動く。これはにはびっくりした。明らかに昔の扇風機より優れているじゃないか。

このクーラーにさよならを言って、現代のエアコン、買ってみようかな。。

*ところで、クーラーの設定温度をやや高めにして一日部屋にいるのと、暑い部屋で汗を流しながら扇風機で一日過ごすのとでは、どちらが体に良く体力を消耗しないのでしょうか?ご存知の方がいらっしゃいましたら是非教えてください。

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2005年08月17日

事件があった日

会社を辞める半年ほど前、私の机の引き出しの中に、私を批難する言葉がマジックで大きく書かれた紙が入っていたことがある。

これまでの人生の中で、陰口を叩かれていたこともたくさんあっただろうし、私を嫌っている人もいただろう。だが、それは私の知らないところだったり、また、あからさまな態度で“キライ”を示す人もいたが、それはそれで納得がいくものだ。だが、その紙のように、誰だかわからない、何が理由だかわからない、知らない誰かが何かの理由で私を嫌っている、それを紙に書いて、誰もいない時を見計らって、私の机の引き出しをあけてまで、その紙を入れたという事実が私を一番苦しめた。

運悪く、引き出しを開けた瞬間、隣に同僚が立っていたため、私の心の中だけにしまっておくことができなかった。同僚はびっくりし、上司のところへ相談に行こうと私を引っ張って行った。その時の私は、まだぼんやりとした意識の中にいて、あまり感情がなかった。が、同僚も上司も私以上に驚き、そして私を慰めた。そこで私は不覚にも涙を流してしまったのだ。

そうなるともう止まらなかった。
話はどんどん広がり、チームリーダーは犯人を捜そうと必死になってくれたが、見つかるはずが無い。私は“もうこれ以上この話を広めて欲しくない”その気持ちでいっぱいになった。なぜなら“火の無いところに煙は立たない”の言葉が頭の中でグルグルしていたからだ。“そういうことをされる=そういう人だから”そう思われるのが嫌だったのだ。

友人達は、皆「そんな影でコソコソする奴、ろくなもんじゃないよ。ひがんでるんじゃないの?負けちゃダメだよ」と言って慰めてくれたが、しばらくの間、私は誰も信じられなかった。仕事をしながら“この中の誰かがあの紙を入れて、平気な顔をして仕事をしてる。私が泣いたこと知っているだろうか?私の何が気に入らないんだろう”そんなことばかり考えていた。

だが、考えても考えてもわからなかった。
仕事上で、キツイやり取りをした相手もいる。だが、全て他部門の人であり、しかもそういう場合、相手も言いたいことをぶつけてくる。仕事関係とは思えなかった。なら女の子か?私はもうかなり古株になっていて、教える立場にいたが、新しい人には極力気を遣った。なぜなら、人にも仕事にも慣れていない、新人が一番大変だからだ。かといって、古株仲間と何かあった記憶も無い・・。

時間が経つにつれ、“きっと私の想像をはるかに超えたところで、私の存在そのものを疎ましいと思う人がいるのだ”という悲しい事実を受け入れることができるようになった。

だが、やはり悔しかった。
私だって疎ましいと思っている人はいる。が、そんな卑怯なマネはしない。それに負けて泣いてしまったということが悔しくてたまらなかった。

そんな時友人が「小学生の頃、私の友達も同じようなことされたの。その子ね、その紙を大きくかざして、『この紙入れたの誰!!こんな卑怯なことする奴だれだっ!!』って大声で言ったんだよ。見ていてとっても気持ちよかった」と教えてくれた。

私はすごく後悔した。私も会社の机の上に立って、その紙を大きくかざし、シーンとしてる社内で皆に聞こえるよう「この紙入れたの誰!!コソコソしてないで文句があるなら堂々と言いに来なさいよっ!!」と言ってやればよかったと。次にまたもし同じことが起こったら、絶対そうしてやろうと準備万端で待っていたのだが、二度と紙が私の引き出しの中に入っていることはなかった。

私は周りの目を意識しすぎるきらいがある。周りの意見に左右されがちだった。結局、私は自分が悪く思われるのをおそれ、コソコソと胸の中にその事実をしまうことに一生懸命になっていた小さな人間だった。だが、その事件があってから、私は少しずつ逞しくなっていった。

間違ったことをすることもあるだろう。嫌われることもたくさんあるだろう。だが、それも含めて全部私だ。自分で自分を受け入れないでどうする。周りの評価は真摯に受け止めるが、すべての評価が正しいわけではない。

少しのことで動揺する自分がまだ私の中にいる。
だが、もっと自分を信じたい。動揺して悩み迷ってる時間など、もう私は欲しくない。

だって、自分の価値は自分で決めるんだもん。

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2005年08月15日

ブランドになる

私は、短期留学から帰国した翌日に派遣会社に登録しに行き、その場で紹介された仕事を一日だけ考え、次の日にその仕事に就くことを決めた。時給は相場より低かったが、車で通えるという、私にとってはずせない条件がクリアされたこと、10分程で通えること、ブラインドタッチとワード、エクセル、インターネットが使えればいいということで私は決めた。留学で貯金を使い果たし、贅沢は言っていられない。とにかく早く働きたかったのだ。

その会社には、社内に社食が3つもあり、パンも社内で焼いていて、焼きたてが食べられる、カフェテリアも備わっていて、おいしいコーヒーやソフトクリーム、ケーキまで売っていた。
もちろんパソコン、プリンターは一人一台ずつで、二人ごとにパーテーションで仕切られている。文句なしの職場環境だった。

入社してから2年ほどは派遣らしい仕事をしていたと思う。社員二人のアシスタント業務に加え、郵便物を配布したり、ちょっとしたお当番があったくらいで、責任のある仕事など殆どしていなかった。当日欠勤しても仕事にはまったく支障は無く、アシスタントがいない社員がちょっと困るくらいだっただろう。その頃は、私も元気で休むことなく毎日会社に楽しく通っていた。

その会社の本社は都内にあるが、人件費や場所代節約の為、事務部門など、都内でやらなくとも支障をきたさない部が私の住む千葉県にやってきた。気がつくと、社員の数より派遣の数の方が多くなっていた。優秀な派遣社員は出張まで行かされていた。

やがて会社は、さらに千葉より安い地方へ子会社を作った為、今まで一緒に働いていた多くの派遣社員が首を切られることになった。その後、さらに中国へ子会社を作り、地方で働いていた仲間さえも首を切られることになった。

私は請求書を扱う部署にいたので、幸い残ることが出来た。なぜなら、請求書は紙だ。時にはバイク便でお客様へ届けることもある。地方では間に合わないという理由で、しばらくの間千葉に残ることになったのだ。

その頃、私はもうお気楽な派遣社員ではなく、社員と同じ仕事をするようになっていた。社員から派遣へ仕事を引き継ぐ時のミーティングで「派遣にお客様を持たせることはできない。無理だ。戦力が半減する」そう私達派遣を目の前にして社員に言われたのを今でも覚えている。

だが、実際は派遣でもできる仕事だった。
私の責任はだんだん重くなり、体調を崩しても休めないことが多くなった。外資だからか、それともその会社のその部の特徴なのかはわからないが、あまり助け合って仕事をするといった環境ではなく、人は人、自分は自分という空気がどこかにあった。だが、私はそれが心地よくもあった。なぜなら自分がきちんと仕事をしていれば、誰にも干渉されないですむ。早く帰りたいときは、調整して早く帰ることができたし、残業も自分なりに計算してこなすことができた。その代わり、窮地に追い込まれても助けてくれる人はいなかった。

こうして仕事の内容はかなりハードになっていったが、お気楽だった頃と給料は殆ど変わらなかった。この頃になると、適当に仕事をしている社員を見ると、無性に腹が立った。“たくさんお給料を貰っているんだから、もっときちんと働いて欲しい”と。だが、それを承知で派遣社員という身分を選んだのも自分だ。仕方ないと割り切るしかない。それに、責任ある仕事を任され、それなりに認められ、100億円もの請求書を発行できるようになっていた私は、仕事にやりがいを感じていた。だからどんなに文句があっても、やりがいが見出せる限り私はやっていける、そう思い、文句を言いつつも辞めることは考えていなかった。

だが、そんな私を打ちのめす会社の方針が告げられたのだ。

派遣法改正によって、派遣社員は長く勤められるようになった。だがその代わり、長く勤務している派遣社員がいる場合、その部署は正社員を雇えないという。そこで会社は、私達派遣社員を、長く勤務している者同士でシャッフルさせるという手を打ち出してきたのだ。今までずっと請求の勉強をみようみまねでやってきた。やっと一人前になった。だが、会社は正社員を入れられないと言う理由で私達派遣100人以上を違う部署の派遣と交換するというのだ。この法を潜り抜ける為に・・。

私は愕然とした。
今まで一生懸命やってきたのはなんだったんだろう?
普通の人事異動なら納得できる。だが、これは違う。いっそ首を切られた方がましだと思った。なぜなら、首を切って新しい人を雇ったら、育つまで時間がかかる、だが、部署が違うとはいえ社内専用ソフトに慣れている私達長期間働いている派遣社員は、簡単に仕事に慣れるだろう。とことん会社都合で扱われる派遣社員。私は誰にも認められてなんかないことをこの時やっと認識した。

その上、「ベテラン派遣社員がいると、人事異動で新しく来た社員が派遣に仕事を教わることになる。それがやりづらい」という社員の意見も理由の一つだったという。それを聞いて私は頭がおかしくなりそうになった。

それからというもの、仕事に対して意欲がまったくなくなってしまい、空虚な毎日が続いた。それでも何も知らない人達は「あんなにいい会社辞めるのはもったいない。もうちょっと頑張ったら」そう言う。だが、もう私がここに長くいる理由は無い、そう思うようになった。私は会社のいいなりになって、放り出されるのは嫌だった。だから、私は辞める日を決めた。その日まできっちり働き、そして私が会社を捨てる。そのつもりで体を引きずりながら、ムキになって休まず仕事を続けていた。だが、“その日”まで後2ヶ月というところで私の力は尽き果ててしまったのだ。

ここでの6年間で、仕事の楽しさ難しさ、人付き合いの難しさ楽しさ、いろいろなことを学び、私は大きく成長したと思う。だが、やる気がないまま仕事は続けられない。病に倒れたのは今もって悔しい。だが、ゆっくりした時間を持つことができたおかげで、私は、自分にとって何が大事なのかがはっきりした。

大企業と言うブランドの中の小さな存在でいるより、私は、どんな場所であっても私なりのブランドを自分で築いていきたい。社会は厳しい。だが、諦めたくない。いつか私自身が素敵なブランドになれるよう、まっすぐ進んで行きたいと思う。


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Posted by late_bloomer at 23:51Comments(14)

2005年08月14日

初心にかえろう!

世の中はお盆休み真っ最中。父方の両親は私が生まれる前にもう亡くなっていて、母方の父も無く、祖母とは一緒に暮らしていたから、私には田舎がなく、特にお盆だから、お正月だからといって、帰るところがありません。我が家の盆暮れはいつも寂しいものでした。嫁いでやっと田舎ができるのかな。。

毎年テレビで、交通渋滞や新幹線の自由席を求める人の列、空港の混雑ぶりを見るたびに、大変だろうなぁという思いと、楽しそうだなぁという思いが交錯します。

そんな中、私は免許証の更新へ行ってきました。
日曜日とはいえ、お盆休みの真っ最中の今日は、手続きをする人はまばら。待ち時間はなかったのですが、違反をしていたので、講習は2時間みっちり。この部屋で講習を受ける人は皆違反者なんだと思うと、皆の人相が悪く見えちゃったりして。さすがに女性は少なくて、恥ずかしかったです。

それにしても、携帯電話でずーっとゲームをしてる人、居眠りをしてる人、なんども確認しろって言われたのに、最後になって確認漏れを言い出す人、いろいろな人がいました。

私は5年ぶりに講習を受けたのですが、やっぱり講習って必要だと思いました。知らなかった変更事項がたくさんあったり、曖昧だった記憶がはっきりしたり。最後のビデオは昔見たドラマ仕立てのほうが感情移入できてよかったんだけど、今回のは、リアリティが増しててちょっと運転するのが怖くなりました。

私は免許を取って早17年。
その間、ずっと運転してきたので随分自分の腕に自信を持っていました。というか、今も持ってる。でも、今回、講習を受けて意識が変わりました。今までは“オラオラ、どけどけどけ〜”とスイスイ走って“私、うまいでしょ”という気持ちで運転していましたが、これからは、走行中は極めて大人しく、が、縦列や車庫入れは完璧にこなす。これでテクを見せびらかすことにしました。

皆さん、くれぐれも事故をおこさないよう、運転は慎重に☆
このお休みに事故が起こりませんように。。

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Posted by late_bloomer at 23:27Comments(12)

2005年08月13日

お見合いサイト

30歳を迎える迄の数年、焦りと不安でいっぱいだった私だが、30歳になってから、“20代とそれほど変わらないじゃん”とすっかり落ち着きを取り戻し、また、先のことなど何も考えない楽しい毎日を送ってしまった。そして、35歳という節目を迎え、またまた私は焦ってしまったのだ。“私、何も変わってない・・。”と。

当時私は、既婚の友達Mちゃんと、会社の社食で毎日一緒にお昼を食べていた。彼女は20代前半から着々と人生設計をし、素敵な彼と20代のうちに結婚した。そして、子供を産むまでの数年間、二人の時間を楽しむことと、貯金をすること、ちょっぴり自分の贅沢をする為に、派遣社員として仕事をしていたのだ。今は立派なお母さんになっている。

私達のお昼の話題は、殆どが私の恋愛問題についてだった。
Mちゃんは一生懸命話を聞いてくれ、いろいろとアドバイスをしてくれた。グズグズしていた私にMちゃんは、ちょっぴりイライラしていた。「あのね、自分でちゃんと動かなくちゃ幸せはやってこないんだよ。」と。そして、Mちゃんが、実は旦那さんと知り合う前、結婚相談所に入会していた事実を教えてくれた。そこは会員さんのレベルが高いことで有名なところだ。Mちゃんはそこでの話をいろいろ教えてくれ、私にも入会を勧めてくれた。

だが、私にはどうしても腑に落ちない点があった。
それは、金額が高すぎること、そして初回のデート場所を相談所側が決めることだった。しかも決められた場所は高級なお店ばかり。これでは最初に大事なチェックができない。相手がどんな場所を提案するのか、はたまた私が決めることになるのか。だが、会員の中には素敵な人もたくさんいたと言う。ほんのちょっぴり私は“やってみようかな”という気持ちになったが、やっぱりどこか引っかかる場合は、やめておいたほうがいい。私は結婚相談所に入会することはなかった。

車で10分の会社と自宅の往復の毎日。会社での出会いに期待は薄い。それになんといっても私にはパニック障害という最大の難関があった。普通に生活をしていたものの、当時の私は公共の交通機関に乗ることが怖くてできなかった。どんどん外へ出て自分の世界を広げることは難しい。でも、私の中で、“いろいろな人と出会ってみたい”という気持ちが強く広がっていった。

そんな時、雑誌で“お見合いサイト”があることを知った。
入会金1万円、月会費が3千円くらいだったと思う。身分証明書を提出することが必須で、独身証明書や、卒業証明書等の提出も求められる。写真掲載は自分で決められる。もちろん会員しかデータは閲覧できないし、同姓のデータは会員であっても見ることはできない。出会い系とは違う、きちんとしたサイトに思えた。

私はMちゃんに相談し、「高くないし、とりあえずやってみなよ」と背中を押され、お見合いサイトに登録することになった。Mちゃんに掲載用の写真を社内で撮ってもらった。就業時間中に待ち合わせしてデジカメでいろんなポーズを取りながらの撮影会。今思い出しても、笑っちゃう。でも、その時は一歩前進しているようで、私の気持ちは充実していた。

登録したのは正解だった。
世の中には独身男性がたくさんいて、皆誰かと出会いたいと必死になっている。そして病気を持った私でも受け入れてくれる人がこの世の中にいるんだ、そのことを知ってとても勇気付けられた。

申し込んでくれた人、こちらから申し込んだ人、数人とまずはメールのやり取りから始まる。まったく面識の無いもの同士だが、気が合うかどうかは数回のメールのやり取りで大体わかるものだ。文章が浮かばない相手とは、メールのやりとりも続かない。そして、何回もメールのやり取りをした人と実際会ってみた。皆素敵な人達だった。私の病気を理解してくれ、私の家の最寄の駅まで遠くから来てくれた。一緒に食事をしたり、映画を観たり。私の世界は広がったのだ。

今まで知り合うことのできなかった異業種の人と幅広く出会うことができ、何よりうるさく干渉してくる人もいない。お見合いや結婚相談所より、自分を出すことができるお見合いサイト、私はいいと思う。

きっかけはなんだっていい。赤い糸は待ってるだけじゃ見つからないのだ。

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Posted by late_bloomer at 20:08Comments(5)

2005年08月11日

何気ない言葉

私は記憶力は殆ど無いが、幸い暗記力はそこそこあった。だから、試験勉強というと、試験直前に片っ端から覚えられるだけ覚えていく。そして、試験当日に解答用紙に書き終えると、その暗記したものをスコーンとどこかへ追いやる。勉強というより作業という感じだった。

だが、高校の世界史の試験で、一度すごく楽しい試験勉強をしたことがある。試験より数日前に問題用紙が配られたのだ。問題用紙には“なぜXX戦争が起こったか?”など、すべて論文形式で回答するようになっていた。最初に問題がわかっているのなら、勉強しない手はない。点数が稼げるところは稼いでおこうという気持ちもあったが、何より自分の言葉で回答を考えるのが楽しかった。私は没頭した。教科書を読み、関係資料を見ては自分の言葉で端的にまとめる。あんなに真剣に“勉強”をしたのは初めてだった。そして私は、数ある問題すべての回答を用意し、試験に臨んだ。

試験が終わり答案用紙を先生が配る時、「このクラスに最高得点98点を取った者がいる。回答は、どれも的確な言葉で端的にまとめられていた。」と前置きがあってから、私の名前が呼ばれた。クラスメイトから「おぉ〜っ」という言葉が飛び、私は「えへへ」と笑いながら席に戻った。誰かが「あの試験、世界史の知識だけじゃなくて文章力も必要だよな」と言っていたのが聞こえた。

私は本当に嬉しかった。勉強は楽しかったし、その結果も良かったのだ。頑張ったことが認められたのがとても嬉しかった。物理で限りなく0点に近い点数をもらっても、そんなのどうでも良かった。

その数日後、担任の先生に用事があり職員室へ行った。すると、その担任の先生の席から程近い席にいる、世界史の先生のところに、あの試験で最低点を取った二人が絞られて立っていた。私は、担任の先生が席をはずしていたので、その場で立って待っていたのだ。世界史の先生は私の存在に気付いてはいないようだった。

世界史の先生は二人に、「前もって問題がわかってるんだから、少しくらいやる気を見せろ」などと説教をしていていた。そしてその後、先生は信じられない言葉を発した。「あれはおそらく兄さんか姉さんに答えを書いてもらったんだろうが、98点取った人間もいるんだぞ」と言ったのだ。私は心臓が高鳴った。“私の事だ。私が一生懸命自分で勉強して得た誇りある98点のことだ・・。”目の前が真っ白になり、私はいたたまれなくなり職員室を出て行った。

先生は、私の98点に対して思っていた本音を本当にさらっと何気なく口にしていた。私はしばらく教室で固まっていた。すると二人が帰ってきて、「あのじじい、お前の98点にケチつけてたぜ」と言った。高校生の私の心に、大きな傷が出来た瞬間だった。

あれから数年、姉と姪がスイスへ向けて出国するのに、母と二人で成田空港へ送っていった時のこと。待合室には、姪と同じようなハーフちゃん達がたくさんいて、その中に一人とっても可愛い女の子がいた。私は母に「見てみて、あの子。すっごく可愛い。めりちゃんより可愛い」と興奮しながら言ったのだ。

数分後搭乗案内のアナウンスが入り、いつものようにチュウをして別れをしようとした。だが、姪は、母にはチュウをしたが、私がチュウをしようとしたらプイっと横を向いてしまったのだ。その時は「あら、ご機嫌斜め。チュウちょうだい♪」ともう一度催促したが、結局姪はチュウどころか笑顔を見せないまま、行ってしまったのだ。何でだ??

しばらくして私はやっと気付いた。
それまで姪を可愛い可愛いと言っていたのに、別れ間際になって、彼女に聞こえる声で、姪より可愛い、と見知らぬ女の子を褒めちぎっていたこと。その無神経な私の言葉が、4歳の女の子の気持ちを傷つけてしまったのだ。私にチュウをしたくなかった4歳の姪の気持ちがあとになって痛いほどよくわかった。

何気なく発した言葉だからこそ言われた方は傷つく。
だが、言った方はそんなことなど全く気付かず、言ったことさえ覚えていないことも少なくない。

発してしまった言葉は、決して取り消せない。
あとでどんな言葉で取り繕ったとしても、上書きできるものではない。
言葉の暴力は心を痛める。もう痛みを感じたくないし、与えたくない。

大きくなった姪が、あの日のことを忘れていますようにと祈る毎日だ。

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Posted by late_bloomer at 16:28Comments(12)

2005年08月09日

刺青と私とアレジ

私の家からちょっとした海水浴場まで、車でおよそ一時間くらいで行ける。10代20代前半までは、本当によく通った。6時頃家を出て、皆で朝食をとり、海に一番乗りする。そこで仮眠をとって、日が高くなってきたら、思う存分海で遊ぶ。ゴムボートを思い切りさかさまにして、友人を海に突き落としたり、浮き輪でただちゃぷちゃぷ浮いてたり。そして2時頃にはもう上がって、家路に向かう。このパターンの繰り返しだった。なぜなら、この時間帯で海へ行くと渋滞にはまることがない。私達は毎年真っ黒でとても健康的な夏を過ごしていた。

さてさて、久しぶりにほんのちょっとだけ海水浴場へ行ってみた。
あの頃のような元気はもうない。とにかく近くて空いてるところに行きたい。前みたいに海の家がたくさんあるようなところに行くと、駐車場に入れる段階で多くのお兄ちゃんたちに客引きされて、1日千円だとか2千円だとかとられる。その上人ばかり多く、なんでも高い。海ってタダで遊べるところなのにな。などとあの頃は考えもしなかったケチなことを考えてしまう。やだやだ。

ところが今回、道に迷ったおかげで、こじんまりとした海水浴場に辿り着いた。珍しく駐車場には無料の看板が掲げてある。車の台数もそんなに多くはない。そこには、海の家は一軒だけしかなかった。だが、ライフセーバーはたくさんいるし、ゴミは殆ど落ちていない。海水浴客もほどほどの人数で、“なんでこんないいところ今まで知らなかったんだろう”と穴場を発見したようでとても嬉しかった。

だが、そこには立派な刺青を入れた男性数人と女性一人のグループがど真ん中に陣取っていた。海水浴で刺青を見ることはあまりなかったので、私は“あれ?珍しいな”くらいにしか思わなかったが、友人はすっかりビビってしまい、怖い、怖いと言っていた。

どうやらその仲間の一人が、たった一軒しかない海の家を経営しているようで、時にはイカをやいたり、アメリカンドックを売っていたりした。その海の家では、水道をいくらでも使わせてくれて、感じも良く、サービスも満点だった。小さな男の子も一生懸命働いていて、足洗い場の砂をこまめに水で流していた。私が「使ってもいい?」ときくと「うん!」と言って、さらに蛇口をひねり、水の出をよくしてくれたのだ。もう一度この海水浴場だったら来たいな、この海の家いいな、そう思わせてくれる場所だった。だが、友人は最後まで「刺青の人たちがいなければいいんだけど」と言っていて、私はちょっぴり悲しくなった。

刺青の人達が、もしかしたら本当にすごい悪い人達で、怖いことをしてるかもしれない。だが、もしかしたら刺青を入れたのはずっと昔で今は普通の人かもしれないし、ただ刺青を入れてるだけかもしれない。とりあえず、刺青をしてても、私達海水浴客が何かされたわけでもなく、逆にあの海の家は人情味があってとても良かったのだ。

ここまで極端な話でなくとも、人は見た目で判断しがちだ。
そして本当の姿を知らないうちに、あれこれと想像力を働かせ、時としてその人を悪く思うことがある。

先日、くたびれたTシャツに、どうでもいい短パン、おきまりのメガネにスッピンで、珍しく高級なお店へ行った。バブリーな時に買った、そのお店の今持っているお財布が欲しかったからだ。だが、私が堂々とお店に入って行き、品定めをしている間、お洒落なカップルが入ってきた。するとお店のお姉さんは私の事を放り出して、そのカップルの元へすーっと消えていった。

だが、カップルは冷やかしで、すぐにお店を出て行ってしまった。お姉さんは何事もなく私の元へ戻ってきたが、このお姉さんからお財布を買う気にはならなかった。確かに貧乏だし、人相にそれが出ちゃってるかもしれないけど、でもでも、私はその日お財布を買うつもりだったのだっ。

ゴクミの旦那さんのアレジは、ファーストクラスの入り口に入ろうとしたところ、整備の人間と間違えられたそうだ・・。

決して人を見た目で判断してはいけない。

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Posted by late_bloomer at 23:59Comments(11)

2005年08月08日

育む

私は、基本的に人は皆良い人だと思っている。
出会ってすぐ嫌なことを言ったりしたりする人は殆どいないものだ。だから私は大抵誰かと出会うと“あ〜この人良い人だな”と最初のイメージを持ち続けることになる。そして、“良い人とは早く打ち解けたい”という気持ちから、警戒心を抱くことなく自分をさらけ出してしまうのだ。

だが、その考えのおかげで、何度も自分勝手に苦しんだことがあった。なぜなら良い人だと思っていた人が、時間と共に“え?この人がこんなこと言うの?”という現場をたくさん目の当たりにするようになるからだ。今まで抱いていた“良い人だなぁ”というイメージと“どうして彼女はあんなこと言ったりするんだろう”とのギャップに苦しみ、私の気持ちは何度も消化不良を起こしてしまった。

だがそれは、私が勝手にその人を“この人は良い人でこんなひどいことを言うはずがない”と決め付けていただけで、本来は、ひどいことも時には言う人だったりしたのだ。そしてその人は、やはり悪い人ではなく、私と相性が合わないとか価値観が違うとかただそれだけのことで、それを勝手に“え?なんで?どうして?”と一人私はグチグチと悩んでいたのだ。そのことに気付いてからは、初めて会った人とは、適度な距離を置いて付き合いはじめることが出来るようになった。

すると、今までは人と出会うと“うわぁ、良い人だなぁ”から始まって“なんで?ちょっとひどいじゃん”と減点法で人を見ていた私が、だんだんゼロから始まって、プラスされていくように考え方が変わってきた。ちょっと距離を置いて、時間をかけて近づいていく方が、本当の意味で“自分に合う良い人”だと正確に知ることが出来、長く付き合っていけることがわかったのだ。

最初に違いを知って、それを受け入れ、そして良い点をどんどん見つけていく。そして相手も私を同じように受け入れ、良い点を認めてくれる。そうなると人付き合いは長く続く、楽しいものになる。

これは、男の人と出会ったときも応用が利く。“この人いい!!”と思ってからすぐ付き合い始めると、しばらくは楽しいが、一緒にいる時間が長くなると、その後は悪いところばかりに目が行くようになり、どんどん点数が減っていく。熱々だったカップルがすぐに別れてしまうのはこのためだろう。だが、最初にじ〜っくり見て、“ふ〜ん、この人こういう人なんだ”くらいからはじめて、“ちょっとこういうとこ嫌だな”と思ったり“いや、待てよ。こんなとこいいかも”なんて考えてから付き合いだしたほうが、長持ちするのではないだろうか。

もちろん直感で“合わない”というのは、どんなにじっくり見ても先につながることはないかもしれないが、出会ってすぐ“素敵!”とか“もう彼のことしか考えられない☆”とかいうより、ちょっぴり冷静な目で彼を見て、違いを受け入れ、点数を増やしたり減らしたりしていく方が、なんとなく穏やかで温かい付き合いが長く続いていくように思うのだ。

でもこれって私の年のせいかなぁ?

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Posted by late_bloomer at 23:59Comments(15)

2005年08月07日

道程

今思うと、私は義務教育が終わった頃から、ずっと“自分の居場所”を求めていたような気がする。いつも“なんか違う”という気持ちが頭の片隅にあって、どこにいても違和感があった。

学校を卒業した後、私はすぐに就職しなかった。
当時はバブルの絶頂期で、就職しようと思えばいくらでも就職できた時代だ。とりあえず何処かへ入って、その間に“居場所”を見つければよかったのだろうが、目標もないまま就職はしたくない、そういう意志の元私はアルバイトをしながら、その時興味を持ったことをどんどんやってみることにした。

まずマナーの学校へ行った。
これはなかなか楽しかった。テーブルマナーはもちろんのこと、コーヒーや紅茶の正しい入れ方や、挨拶の仕方、、歩き方、異文化についてなどなど、今はもうとっくに忘れてしまったことばかりだが、「へ〜」とか「ふ〜ん」とか知らないことがたくさんあって、新鮮で毎日楽しく通っていた。若いうちにマナーを学んだのは良かったと思う。だが、その学校へ来ている人たちは、本当にそういったマナーが必要な生活をしている人達ばかりで、私はそこでも違和感を覚えることとなった。

次は英語学校へ行った。
これはすぐやめてしまった。なぜなら講師がどこかの有名な大学教授の女性だったのだが、生徒も先生も全部日本人で、そこで「Hi!」とかやるのが恥ずかしかったからだ。なんか違う・・。

それからしばらくイベントコンパニオンの仕事をしてみた。
今は需要が殆どなくなってしまったが、当時はイベントがたくさんあり、とにかくなんか喋ったりニコニコしてるだけで、結構なお金になった。仕事はおもしろいとは思わなかったが、これはオーディションで仕事をとったり、指名がかかったりと自分の努力次第で、仕事量と報酬が違ってくる。そういう意味で私は楽しかった。仕事量が多ければ自分が認められた気分になる。“もしかしたらここが私の居場所かもしれない”と思ったこともあった。が、時代とともにその仕事は数が減ってしまい、私は途方に暮れることとなった。

それから私は堅実な道に進まなければという思いにかられ、数社で受付や事務等やってみたが、最長記録は1年9ヶ月。“自分の居場所はどこにもない”と考えるようになり、彼氏に“居場所”を求めて、彼の負担を増やして行くようになってしまった。

これじゃぁ、ダメだ!思い切ってアメリカへ短期語学留学をした。これもやりたかったことの一つだった。私はそこでいろいろな事を考え、いろいろな人に出会った。そこで私はやっと気付いたのだ。“自分の居場所は見つけるものではなく作るものだ”と。

早速帰国し、派遣社員として外資系メーカーで働き出した。ここはおもしろかった。規模が大きい会社なだけに、まさに社会の縮図で、私はいろいろなことを学ばせてもらった。そこで先輩に教わった、「人が嫌で仕事を辞めるのは絶対ダメ。人事異動はあるし、人は代わるものだから」「仕事が嫌で辞めるのもダメ。どこへ行ってもそんな人は通用しない。やりたいことが見つかってから辞めるべき」私はこの二つの言葉を肝に銘じ、体調が悪くなるまでの約6年間ここでお世話になることとなった。

私はその会社でちょっとだけ“自分の居場所”を感じることができたが、所詮私は派遣社員。幾らどんなに頑張っても一派遣社員であることはどうしようもない事実だった。だんだん私の頭の中で“鶏頭となるも牛尾となるなかれ”という言葉が渦を巻くようになっていった。

そして今の私がいる。
これまでの経験のおかげで、ようやく私は“自分の居場所”を作っていく自信ができた。方向性がわかればあとはそれに向かって邁進するのみだ。長く、くねくね曲がった道のりだったが、これからやっと私の道はまっすぐになる。

幾つになっても軌道修正は可能なのだ。

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Posted by late_bloomer at 23:59Comments(9)